やなさっての風

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タグ:朝鮮

1: ダーティプア ★@\(^o^)/ 2015/02/24(火) 12:31:07.92 ID:???.net

県内の公立高校の元教諭と現役教諭5人が共同執筆し、古代から現代までの埼玉と朝鮮半島との関わりをたどった「こんなにも深い 
埼玉と韓国・朝鮮の歴史」を出版した。

朝鮮半島の国家「高句麗(こうくり)」から渡来した人たちによって開拓された高麗郡(現在の日高市、飯能市など)が2016年に建郡
1300年を迎える中、埼玉と朝鮮半島の関係を知る格好の一冊だ。

執筆者で元さいたま市立大宮北高教諭の江藤善章さんは「海のない埼玉と朝鮮半島が古代から多彩な関係にあり、実に面白い」と
話している。

執筆者がそれぞれフィールドワークを重ねてまとめた。古代では「高麗郡」「幡羅(はたら)郡」(深谷市、熊谷市)を中心に紹介し、
渡来人と埼玉の関わりの深さを解説している。

近世では江戸時代に、朝鮮王朝が派遣した外交使節「朝鮮通信使」に焦点を当てた。川越、加須市などには、朝鮮通信使を描いた
絵馬があることや白岡市の神社に朝鮮通信使の書が扁額として飾られていることが紹介されている。

近代・戦後では1923(大正12)年の関東大震災発生時に県内で起きた朝鮮人虐殺、太平洋戦争時に吉見百穴の地下軍需工場で
働いていた朝鮮の人たち、指紋押なつ拒否運動、北朝鮮による日本人拉致などについて記した。

高麗郡長の高麗王若光(じゃっこう)を祀った高麗神社は、参拝した若槻礼次郎や浜口雄幸が後に総理大臣になったことから出世明神
と呼ばれたことや、東松山市の「みそだれのやきとり」と朝鮮の人たちとの関係と、文化的側面にも触れている。

また、元県立越谷西高教諭の宮内正勝さんがコラムで両者の関係を紹介している。

江藤さんたちは92年に「くらしの中から考える―埼玉と朝鮮」、02年に日韓対訳本「埼玉とコリア」を出版するなど、埼玉と朝鮮半島の
関係を知ってもらう活動を続けている。今回は考古学研究の成果を加え、活動の集大成としてまとめた。

執筆者の元県立越ケ谷高教諭の小川満さんは「嫌韓本の影響などで、韓国をイメージで『嫌い』という人もいる。まずは、埼玉と朝鮮
半島との地域の歴史を知ってほしい」と話す。

定価1500円。問い合わせは、新幹社(03・5341・4750)へ。

ソース:埼玉新聞 2015年2月24日
http://www.saitama-np.co.jp/news/2015/02/24/11.html
「こんなにも深い 埼玉と韓国・朝鮮の歴史」を執筆した江藤善章さん(右)と小川満さん
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1: Hi everyone! ★@\(^o^)/ 2014/06/14(土) 09:43:25.65 ID:???.net

ソース(MSN産経ニュース) http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140615/wlf14061507000003-n1.htm
写真=手に穴を開けられる女性の姿が描かれている「蒙古襲来絵図」
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 九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、
日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、
日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も
数限りなかった。

■侵略される町々

 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都
へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。

 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手は
キム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。

 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んで
いく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。

 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中に
はまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。

 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢
に立たされる。

 日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜
(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。

 この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に
染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。

■相次ぐ残虐行為

 このような行為は博多の前の戦場だった対馬と壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの
高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。

 日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。

 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に
並べられたという記述は残酷で生々しい。

 奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとに
した記述のため、異論も出ている。

 ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂き
などにした残虐な話は数知れず。

 壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人
だったともいわれている。

 さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上する
といった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。

>>2以降に続く)


2: Hi everyone! ★@\(^o^)/ 2014/06/14(土) 09:44:00.83 ID:???.net

>>1の続き)

■突然に消えた敵

 戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、
全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。

 しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えて
いたのだ。

 当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。

 元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。

 それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開に
ついて意見を交わしたとされている。

 キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上
使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。

 その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。

 でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団
が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。

 これを“神風”、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。

(終わり)

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